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恵那山・ウェストン公園

日程 2014/10/15
行程 岐阜県/中津川市

地図

参考Web

2014/10/15
 
この公園は協賛者の寄付により整備された
との記載があります
(中津川市観光協会、2001年10月)




この公園の川の対岸には
落差50mほどの立派な滝がある
(滝名未確認)


ウェストン公園の東には
恵那山黒井沢登山口へ通じる道路がある
ここから東へ約11km
恵那山の南の麓が黒井沢登山口

また、この写真の右へ行くとすぐに
恵那神社がある
恵那神社から北東方向へ正ヶ根谷を1.5kmほど
登った所が前宮谷登山口(前宮コース)

ウェストンは
ここから恵那神社を通り前宮コースで
恵那山に登山した。(1893/05/11)



ウェストン著
「日本アルプスの登山と探検」
P195より抜粋


“中津川の南東へ2~3マイルほど行くと、
森の木立に半ば隠れた八幡神社を通り過ぎた。
1時間後、ぼくたちは北にコースを変えて、
しょうがに谷(正ヶ根谷)を登り、
恵那神社に着いた”
とある。
(恵那神社から北東方向の
谷筋が正ヶ根谷である)

当初、ウェストンは
中津川の北東にある落合から
「落合本谷」を通って恵那山に登るコースを
予定していたが、結局、上述のように
前宮コースからの登山となった。



ウェストンの登山歴(合計3回の来日)

1回目の来日
(1888-1895神戸滞在・
英国国教会伝道協会の宣教師として)

1891年(明治24年)
浅間山・槍ヶ岳(不成功)・御嶽山・
木曽駒ヶ岳・富士山(宝永山)、など
1892年(明治25年)
富士山・乗鞍岳・笠ヶ岳(不成功)・
槍ヶ岳・赤石岳、など
1893年(明治26年)
恵那山・富士山・針ノ木峠・立山・
笠ヶ岳(不成功)・前穂高岳、など
1894年(明治27年)
白馬岳・笠ヶ岳・常念岳・御嶽山・身延山
など

2回目の来日
1902-1906横浜滞在・
SPG(英国海外福音伝道協会)の
宣教師として

1902年(明治35年)
北岳、など
1903年(明治36年)
甲斐駒ケ岳・浅間山、など
1904年(明治37年)
地蔵岳・鳳凰山・北岳・間ノ岳・仙丈岳・
高妻山・妙高山・八ヶ岳・富士山、など

3回目の来日
(1911-1915横浜滞在・
英国の宣教師として)

1912年(明治45年)
有明山・燕岳・槍ヶ岳・奥穂高岳、など
1913年(大正2年)
槍ヶ岳・焼岳・霞沢岳・奥穂高岳・白馬岳、など
1914年(大正3年)
立山(雄山)・五色ヶ原・針ノ木峠・燕岳・
大天井岳・富士山、など



ウォルター・ウェストン著
「日本アルプスの登山と探検」

大江出版社1982年6月発行
ISBN4-900271-01-2
によれば
(P191よりP199まで)
以下の行程が書かれている。

東海道線岐阜駅に降りる~

加納犬山古城太田
「岩屋旅館」~
伏見釜戸中津川~「田丸屋」

八幡神社正ヶ根谷恵那神社

午後12時45分に恵那山頂上
測量小屋の尖塔・ココアを作って飲む
~中津川~神坂峠越え~中山道~伊那街道
駒馬中村時又の「梅ノ屋」~
12時間の天竜下り
~太平洋に出る~
~浜松で夜行列車に乗る
~富士山麓の鈴川に着く
(この後、富士山登山)

私の友人によれば、
2014/11/11までの調査で、
「岩屋旅館」は美濃太田地内では見つからず
「岩井旅館」があったようです。
ウェストンの文を読んでみると、
「岩井旅館」も可能性がある。

明治38年太田町下町家並図(高島博調査)で見ると、
美濃加茂市の太田小学校の東100m位の所です。
宿屋岩井屋・渡辺今二郎、と記載されている。
御嵩、伏見も探したが不明。御嵩、伏見には江戸末期、
旅籠が大小合わせて28軒、29軒ずつ在ったようです。

さらに詳しい行程であるが、
瑞浪市の関係書によれば
伏見柄石(がらいし)峠日吉半原峠釜戸
となっており
私(筆者)の生まれ故郷の家の前をウェストンが
通ったことになるので興味深々である。

「広報みずなみ」平成12年9月1日発行、
川村宏氏寄稿、
「柄石峠を越えた登山家ウェストン」より抜粋
ウェストンは別の紀行文(注1)に、
この旅の途中に立ち寄った
次月(しづき)の橋本屋に関する記述で、
(以下、その文)

【伏見からは目立った風景はなかったけれど、
一時間楽しく馬車に揺られて井尻(いじり)に着いた。
井尻で私たちは再び中山道から離れた。
中山道からやや右へそれて行き、
三里半先の釜戸まで
延びている新しい道で、
下街道に通じていて結局は大
井で再び中山道に合流するのである。】

【途中で二つの峠を越えねばならなかった。
最初は柄石峠で、
その西側の麓の橋本屋という宿で
昼食のため休んだ。
宿のとても親切な応対は、
私たちをもっと休んでいたい
気分にさせてくれた。】

【宿から半時間歩いた峠の頂上は、
茶屋が目印になっている。
茶屋にはその近辺で見つけた
さまざまな化石や水晶が
売り物として並べられている。

これらのうちの幾つかを調べている間に、
私たちの注意は
黒っぽい毛虫の群の珍しい行進に
惹(ひき)つけられた。
毛虫の奇妙な行動をもっと詳しく、
ここにいて調べられたらと
思わせるほどの規則正しさで、
固まってその辺りを這(は)い
回っていたのである。】

【登りでまた、数多くの巨大な岩~
その大半は冴えない紫紅の
色合い~のことに触れておく価値がある。
岩は妙にバラバラに山腹の
そこら中に散らばっていて、
地質学者に面白い研究テーマを与えそうだ。

越えることになる第二の峠は
半原峠である。
下り始めて間もなく、
大井川(訳者注土岐川の誤り)の谷と
黒っぽく堂々とした恵那山の姿が
目を惹(ひ)いた。
釜戸へ着くまでに
すっかり平野になっていた。】

半原峠を釜戸に向かうと、
半原地籍内で正面に
雄大な恵那山の全貌が見える場所がある。
この半原で、ウェストンは恵那山を見て感動し
登山の気持ちが高揚したことだろう。


ウォルター・ウェストンが
見たと思われる場所から撮影した
恵那山
(岐阜県瑞浪市日吉町半原より)

(注1)
横浜開港資料館にウェストン著の、
出版本ではない資料があり、
それが「別の紀行文」であるらしい。
瑞浪市の関係者が川村宏氏から聞いた、
ということだが、はっきりせず、今も不明のままだ。

その後
松本市図書館の、O氏に2014年末に相談し、
資料があればと、お願いしていたところ
2015年1月になって
貴重なアドバイスをいただいた。
「ウェストンの恵那登山と天竜川下り」川村宏氏著
(発行2004年10月1日)に
その訳文と説明がある、ということだ。

さっそくその本を蔵書している
別の某図書館にて閲覧し、
まさに上述のとおり、原文の所在もわかり
確かな史実と確認することができた。

原文は、
JWM紙(The Japan Weekly Mail)
(横浜開港資料館蔵)で
登山2ヶ月後の7月22日と29日に
「中央日本の街道と脇道」
(Some Highway and Byways in Central Japan)
と題して掲載されている。

(以上、川村宏氏の著書、
「ウェストンの恵那登山と天竜川下り」より抜粋)
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